1.人物紹介:Karri Saarinen氏とは

引用:X @karrisaarinen
Karri Saarinen(カーリ・サーリネン)氏は、プロジェクト管理ツール「Linear(リニア)」のCEO兼共同創業者です。フィンランド出身で、デザインとエンジニアリングの両方に精通した稀有な人物です。

彼のキャリアは印象的です。Airbnbでは、Principal Designerとしてデザインシステムの構築に携わり、その後CoinbaseでHead of Designを務めました。これらの経験を通じて、スケールする組織におけるデザインの課題を深く理解しています。

2019年にLinearを共同創業しました。同社は、開発チーム向けの洗練されたイシュートラッキングツールとして急成長を遂げ、デザイン品質とパフォーマンスへのこだわりで知られています。Saarinen氏は、プロダクトデザインの実践者であると同時に、デザイン哲学についての深い思索者でもあります。

2.【全文 日本語訳】Design is search(2025年12月13日)

Part 1:デザインは探索である

引用:X @karrisaarinen
今回、この話題が議論を呼んだこと自体はとても良いことだと思っています。業界にとって健全ですし、それぞれが自分の立場を考えるきっかけになります。
ここでは、私の考えをもう少し整理された形で説明したいと思います。

コーディングツールは悪いものではありません。便利ですし、デザインを現実にするうえで確実に役立ちます。最近見かける議論の多くは「実装を良くすることでデザインの質を高める」という話ですが、それ自体は素晴らしいものの、「デザインとは何か」という話とは少し違うと感じています。

私は、デザインを「生産パイプライン」ではなく、「探索(サーチ)」として捉えています。
デザインは、最初は混沌とした問題から始まります。初期段階では答えはわかっていません。だからこそ、私は「デザイン=アウトプット」だという考えを完全には信じていません。もちろん、リリースされなければデザインは無意味です。ただし、デザインしている過程そのものが無意味になるわけではありません。

デザインのプロセス、そしてその中にある苦しさこそが、価値なのです。

制約(Constraints)

制約は敵ではありません。ただし、早すぎるタイミングでやってくることがあります。
時間、予算、既存コード、チーム体制、顧客。制約は現実に存在します。問題なのは、それらの制約が「向かうべき方向を見つける前」に思考空間を定義してしまうことです。そうなると、想像力そのものが制約に形作られてしまいます。

初期のデザインは「方向性」を探すフェーズです。
問題を解決する形を見つけ、「見た瞬間に当然だと感じられる」状態にたどり着こうとしています。この段階では、スピード、柔軟さ、そして考えを変えてもコストを払わなくて済むツールが重要です。

その後になって、制約は不可欠な存在になります。
現実からの反発が欲しくなります。メディアそのものに問いかけたい。そこから、プロトタイピング、コード、エッジケース、パフォーマンス、鋭い角が作品を磨き始めます。そこにクラフトが現れ、デザインとコードをつなぐツールが意味を持ち始めるのです。

建築(Architecture)

建築は、ソフトウェア以上に制約だらけです。素材、重力、気候、予算、労働力、法規制、ゾーニング、政治。
それでも多くの場合、最初はスケッチから始まります。

それは、スケッチが純粋だからでも、ノスタルジックだからでもありません。
形と構造を一度切り離し、「建てる価値のあるもの」を見つけるための思考モードだからです。

スケッチは完成形の縮小版ではありません。まったく別の思考方法です。
面白い間違いをする自由を与え、大きな方向性を描くことを許してくれます。家は、角から少しずつ積み上げて完成させるものではありません。

私は以前、伝統的な山小屋で知られる町で、非常にモダンで彫刻的な住宅を設計している建築家と話しました。条例は「地元の様式」を求めていました。もし条例から考え始めていたら、安全で予測可能な建物になっていたでしょう。

しかしその建築家は、条例から逆算するのではなく、景観を尊重し、近隣住民を巻き込み、共感と支持を得られる「アイデア」から設計を始めました。
そして計画が議会に提出されたとき、地域社会がその構想を支持し、結果として規制の解釈や運用が柔軟に見直されることになったのです。
その建築は、形式上は条例の枠から外れていたかもしれませんが、土地の文脈とコミュニティの価値観には、むしろ深く根ざしたものでした。

制約に早く縛られすぎると、結果が悪くなるだけではありません。
そもそも発見されるはずだった可能性そのものが消えてしまいます。

ツール(Tools)

ツールには「意見」があります。
ある行為は簡単にし、別の行為は面倒にする。時間が経つにつれて、「何が現実的か」を私たちに教え込みます。

探索に向いたツールもあれば、構築に向いたツールもあります。
前者は表現の自由を与え、未確定でいることを許します。後者は構造、一貫性、正しさを報いてくれます。どちらも必要です。

問題は、デザインという行為全体を「コミットに最適化されたメディア」に押し込めてしまうことです。

私は、デザイナーがコードを避けるべきだとは思いません。ソフトウェアは素材です。理解しなければ空想に陥ります。ただし、素材を理解することと、素材に支配されることは別です。

コードは「コミットのメディア」です。既存のシステムの中で設計すると、過去の意思決定を引き継ぐことになります。サポートされているものに引き寄せられ、大きな賭けはすぐにコストとして見えてしまいます。

その結果、現行システムの中では洗練されていても、システム自体を変える可能性の低いデザインが生まれがちです。

統合(Unification)

ツールやワークフローを統合したいという気持ちは理解できます。
引き継ぎは情報を失います。メモ、デザイン、プロトタイプ、ロードマップ、コードの間で、品質は劣化します。混沌から明確さへ、翻訳ロスなしで移行できる世界。その魅力は大きい。

ただし、統合には影もあります。
それは「標準化」になり得ます。同じプリミティブからすべてが作られると、同じパターンが繰り返されます。ツールは下限を引き上げますが、同時に何を目指す価値があるかを静かに定義し、上限を下げることもあります。

最も簡単な道が常に最も一般的な道なら、一般性そのものがプロダクトになります。

私たちの業界は、なぜか断片化を極端に嫌います。でも人間にとって、用途や思考モードごとに環境を分けるのは自然なことだと思います。

もしかしたら間違っているかもしれませんが、私は「完全な統合」を信じていません。それは、多様性を育てるよりも、産業を支配したい欲求から生まれている場合も多いと感じます。

私が本当に信じていること

私は、「デザイン」と「エンジニアリング」をロマンチックに分離したいわけではありません。
デザイナーがコードを書くべき場面もあります。優れた美的感覚を持つエンジニアもいます。一人で最初から最後までやり切る方がうまくいくプロジェクトもあります。

私が守りたいのは、思考のフェーズです。
それを「無駄な時間」だと装わないこと。

初期のデザインには自由が必要です。
後期のデザインには現実が必要です。

それらを無理に一つに潰してしまっても、プロダクトは作れます。以前より速く出せるかもしれません。
しかしその代わりに、最短距離しか探さなくなる可能性があります。

だから私の考えはシンプルです。

使うツールは何でもいい。ただし、自分が今どのモードにいるのかを意識すること。
探索を早すぎる制約から守ること。
学ぶ準備ができたら、制約を招き入れること。
コードは檻ではなく、フィードバックとして使うこと。

新しい技術は「作る速さ」を上げます。
でも、それはデザインの本質ではありません。

3.【全文 日本語訳】Design is a search for the opinions(2025年12月15日)

Part 2:デザインとは「意見」を探すこと

引用:X @karrisaarinen
あらゆるツールやデバイスには「意見」があります。
それは、ある行動へと人を自然に導き、別の行動からは遠ざけます。あることは驚くほど簡単にし、別のことは面倒で、遅くて、コストのかかるものにします。
それこそがデザインの責任であり、同時に最大の価値でもあります。誰かにとって本当に役立つものをつくること。

どれくらい「意見」を持たせるかには、必ずトレードオフがあります。
非常に柔軟なシステムは多くの選択肢を与えますが、導きは少ない。一方、強く意見を持ったシステムは方向性を示してくれますが、選択肢は減ります。

人や企業が「意見のあるシステム」を選ぶ理由は、世界中の大多数が車やiPhone、サンドイッチを買う理由と同じです。
すでに誰かが何千もの判断をしてくれている。だから私たちはすぐに恩恵を受け、本当に重要なこと——仕事、目的、A地点からB地点へ行くこと——に集中できるのです。

もし、サンドイッチからソフトウェアまで、すべてを毎回ゼロから作らなければならなかったら、経済は即座に停止するでしょう。
文明は、共有された意思決定と、再利用される解決策の上に成り立っています。

「汎用ブロックから自分で何でも作ろう」という考え方には、温かみがありますし、その気持ちはよくわかります。
ただ、現実には存在しない世界観を無理に押し付け始めた瞬間、私はそこについていけなくなります。それは人々が実際にやっていることでも、求めていることでもありません。

どんな「クラフト」を見てもそうです。
キッチン、工房。目的のために設計された空間に、目的のための道具が揃っている。その多くは何世紀もの伝統——別の言い方をすれば「経験」——によって形作られています。

本気の職人は、プリミティブ(汎用要素)で仕事をしません。
料理人は「ナイフ」「鍋」「にんじん」を持っているわけではない。特定の用途の、特定のサイズの、信頼する伝統を持った道具を使います。寿司職人がIKEAの汎用ナイフを買うことはありません。それを買うのは、毎日使わず、良し悪しをまだ知らない趣味の人でしょう。

家具職人は「ノコギリ」を買うのではなく、手に入る限り最高の加工機を買います。
クラフトを深めれば深めるほど、必要なものは「より具体的」になり、「より汎用」にはなりません。

アプリを「アボカドスライサー」に例える話も、ある程度までは有効です。
もし一日中アボカドを切るなら、良いアボカドスライサーに投資する価値は十分にあるでしょう。多くの人には無駄や過剰に見えても。
そして、アプリが「一つのことしかできない」からといって、それが悪いわけではありません。おならアプリのように単機能なものもありますが、「一つのことを極端にうまくやる」ツールは、価値があり、時には称賛に値します。怪物ではありません。

私にとって本当の怪物とは、何でも包含しようとするのに、結局どれも大してうまくできないシステムです。
人生を原子的なブロックに還元し、すべてを支配しようとする。まるで『スタートレック』のボーグのように。世界を汎用概念に同化させ、「統一された大理論」を証明しようとする存在です。

その世界観を物理空間に持ち込めば、無個性な住宅や白いキューブが生まれます。そして人々に発泡スチロールのブロックやMinecraft的なプリミティブを渡し、「さあ、住居も道具も自分で作ってください」と言う。
それを魅力的に感じる人もいるでしょう。でも多くの人にとっては、かなり疲れるし、あまり刺激的ではないはずです。

それを、人々が実際に「住みたい」と感じる世界と並べてみてください。
伝統に形作られた建築。デザイナーが生み出した家具。アーティストによる芸術。作り手の思想が宿った道具。
それぞれが明確な目的と物語を持っている。その積み重なりこそが、人生そのものであり、人生を面白くしているものです。

ソフトウェアも例外ではありません。
あらゆるレイヤーに慣習があります。プログラミング言語には意見がある。フレームワークにも意見がある。機械語ですらルールがあります。
完全に意見のないレイヤーなど存在しません。 すべてのシステムは、何らかのルール——つまり意見——の上で動いています。

だからこそ、仕事とは「どの意見を、どこに埋め込むか」を選ぶことです。
そして探索とは、世界を味気ないプリミティブの表に分解することなく、人間的で、意味のある場所へ人を導いてくれるデザインを見つけることです。

一つの壮大な理論や完全な統合よりも、私は情熱から生まれたプロジェクトの世界を選びたい。
独自の貢献。何世紀にもわたって重なってきたアイデア。

少なくとも私は、味気ない原子表を与えられて「さあ遊んでください」と言われる世界には、あまり魅力を感じません。

4. 考察:「探索」としてのデザインが持つ意味

4-1. デザインは生産ラインではない

Saarinen氏の主張の中でも、とりわけ印象的なのは「デザインは探索(search)であり、生産パイプラインではない」という視点です。
この考え方は、デザインツールの高度化やAIの急速な普及によって、いま改めて重要性を帯びています。

現代のデザイン業界では、効率化と自動化が強く求められています。
FigmaからReactコンポーネントへの自動変換、AIによるデザイン生成、ワンクリックで実装に近づくプロトタイピング。これらは確かに生産性を大きく高めました。

しかしSaarinen氏が警鐘を鳴らすのは、こうしたツールが「探索の余地」そのものを圧縮してしまう危険性です。

デザインの初期段階では、答えは存在しません。
そもそも「何が問題なのか」すら明確でないことがほとんどです。その混沌の中から、少しずつ輪郭を見出していく。この過程こそがデザインの本質であり、試行錯誤の苦しささえも価値の一部なのです。

4-2. 制約のタイミングがすべてを決める

制約はデザインの敵ではありません。
しかしSaarinen氏は、「制約がいつ導入されるか」が決定的に重要だと語ります。

彼が紹介した建築家のエピソードは、その象徴的な例です。
伝統的な様式が求められる地域で、モダンで彫刻的な住宅を設計したその建築家は、条例から思考を始めませんでした。まず景観や土地の文脈を読み取り、近隣住民と対話し、構想への支持を丁寧に積み重ねていったのです。

その結果、計画が審議の場に提出されたとき、地域社会はその構想を支持し、規制は形式的な枠としてではなく、柔軟に再解釈される対象となりました。

もし最初から条例に縛られていたなら、無難で予測可能な、しかし記憶に残らない建築に落ち着いていたでしょう。
早すぎる制約は、想像力の射程を縮めます。そして本来なら見つかっていたはずの解決策を、発見される前に消してしまいます。

これは建築に限った話ではありません。
企業、プロダクト開発、研究、あらゆる創造的な現場に共通する問題です。

「それは技術的に難しい」「予算が合わない」「過去に失敗した」。
こうした言葉が議論の冒頭に置かれた瞬間、思考は安全圏へと後退します。本来ならば大胆な仮説が生まれる場が、既存の枠内での小さな最適化を競う場へと変わってしまうのです。

4-3. ツールは意見を持っている

「ツールは意見を持っている」というSaarinen氏の指摘は、デザイナーに限らず、あらゆる創造的職種に当てはまる本質的な洞察です。

ツールは中立ではありません。
ある行動を簡単にし、別の行動を面倒にします。そして時間をかけて、「何が合理的か」「何が現実的か」を私たちに刷り込んでいきます。

探索に向いたツールもあれば、構築に向いたツールもあります。
問題は、デザインという行為全体を、最初から「コミットメントに最適化されたメディア」に閉じ込めてしまうことです。

コードは典型的な「コミットメントのメディア」です。
既存のシステムの中で設計するということは、過去の決定を前提として引き継ぐということでもあります。すでに用意された選択肢に引き寄せられ、大きな賭けは即座にコストとして可視化されます。

その結果生まれるのは、現行システムの中では洗練されていても、システムそのものを変える力を持たない成果物です。

4-4. 統一の誘惑と多様性の価値

多くの産業は「統一」を夢見ます。
ツールとコードを統合し、ハンドオフをなくし、アイデアが翻訳ロスなく実装に至る世界。それは確かに魅力的です。

しかしSaarinen氏は、その裏側にあるリスクを指摘します。
統一は、しばしば標準化へと変質します。すべてが同じプリミティブから構築されれば、同じ思考パターンが再生産されます。

ツールは最低水準を引き上げますが、同時に「何を試みる価値があるか」を静かに規定することで、可能性の上限を下げることもあるのです。

彼は、業界全体が断片化を過剰に恐れている点にも疑問を投げかけます。
異なる目的、異なる思考モードのために、異なるツールや環境を使い分けることは、本来とても人間的な営みのはずです。

Saarinen氏が信じていないのは「偉大な統一」です。
それは多様性を育てるためではなく、しばしば支配の欲求によって推進されてきたからです。

4-5. 職人の道具と、プリミティブの罠

第二の投稿でSaarinen氏は、「意見の探索」というテーマをさらに深めています。

あらゆるツールやデバイスは意見を持っています。
それは特定の行動へと人を導き、別の行動から遠ざけます。これこそがデザインの責任であり、最大の貢献です。

彼が挙げるのは、世界中の職人に共通する姿勢です。
寿司職人は汎用ナイフを選びません。家具職人は「のこぎり」を買うのではなく、最適な加工機に投資します。技術が深まるほど、道具はより具体的になり、決して汎用化しません。

単一用途ツールの比喩も、ここでは誤解されがちです。
一つのことを極端にうまくやる道具は、無駄ではなく、むしろ尊敬に値します。

彼にとって本当の怪物とは、すべてを包含しようとしながら、何ひとつ卓越できない包括的システムです。
人生を原子的なブロックに還元し、世界を均質化しようとする思想です。

4-6. 文化と文脈から見える普遍的な示唆

Saarinen氏の議論は、特定の国や文化に限定されるものではありません。
世界各地の伝統工芸、建築、デザイン文化と強く共鳴します。

ヨーロッパの石造建築、アジアの木工技術、中東の装飾文化、南米の手仕事。
それぞれの文化には、長い時間をかけて磨かれた「意見を持った道具」と「意見を持った形式」が存在します。

一方、現代のグローバルな組織や産業では、効率性を理由に標準化が進みがちです。
共通フレームワーク、共通プロセス、共通デザインシステム。それ自体は合理的ですが、創造の初期段階までそれを適用すると、可能性の芽を摘んでしまう危険があります。

多くの文化に共通するのは、最初は自由に学び、次に型を問い直し、最後に自分なりの道を見つけるというプロセスです。Saarinen氏の語る「探索から始まり、現実によって磨かれるデザイン」は、まさにこの普遍的な創造のリズムを言語化したものだと言えるでしょう。

5. AIクリエイターとしての私見:創造性の未来をどう守るか

5-1. AIツールが突きつける根本的な問い

私はAIを活用してコンテンツを創造する立場にいますが、Saarinen氏の言葉は、私たち「AIクリエイター」にとって特に重要な警鐘だと感じています。

AIツールは究極の「意見を持ったツール」です。学習データ、アルゴリズム、プロンプトの設計。これらすべてが、何が「良い」とされるかを定義しています。そして恐ろしいことに、AIは信じられないほど効率的に、その「意見」を私たちに学習させます。

私たちがAIに「良いデザイン」を求めるとき、実際には「AIが学習した平均的な良さ」を得ています。それは安全で、洗練されていて、おそらく多くの人に受け入れられるでしょう。しかし、Saarinen氏が建築家の例で示したような、ルールを曲げるほどの説得力を持った、真に革新的なアイデアは生まれにくいのです。

5-2. 「探索」の価値を守るために

AIクリエイターとして、私は常に自問しています。私はAIを「探索のツール」として使っているのか、それとも「最短経路への近道」として使っているのか、と。

AIに最初のアイデアを求めることは簡単です。しかし、それは本当の意味での探索でしょうか。混沌の中で苦しみ、何度も何度も試行錯誤し、ようやく「これだ」という瞬間に辿り着く。その苦しみの中にこそ、真のオリジナリティが生まれるのではないでしょうか。

私が実践しているのは、AIを「対話の相手」として使うことです。最初のドラフトはAIに任せますが、そこから先は徹底的に自分の頭で考えます。AIが提案したものを解体し、再構築し、時には完全に捨てます。AIの意見に従うのではなく、AIと議論するのです。

5-3. プリミティブ化する創造性への危機感

Saarinen氏が「ボーグ」の比喩で警告したことは、AIクリエイティブの世界で現実になりつつあります。

すべてがプロンプトテンプレートに還元され、すべてがベストプラクティスに従い、すべてが「効率的」に生産される。その結果、どのコンテンツも似たような雰囲気、似たような構造、似たような表現になっていきます。

私が最も恐れているのは、「AIで作ったコンテンツ」という新しいジャンルが、独自の美学や価値を持つのではなく、単に「安価で早く作れる類似品」として認識されることです。

寿司職人が何十年もかけて包丁を研ぎ、米の炊き方を極めるように。家具職人が木の性質を理解し、最高の道具に投資するように。AIクリエイターにも、私たち独自の「職人性」が必要だと考えています。

それは、AIを使いこなす技術だけではありません。AIが出力したものを評価する目を持つこと。AIには思いつかない視点を持ち込むこと。そして何より、AIの「意見」に流されず、自分の意見を持つことです。

5-4. 制約としてのAI、自由としてのAI

興味深いことに、AIは制約にもなり得るし、自由にもなり得ます。

多くの人がAIを「制約を取り除くツール」として見ています。コーディングスキルがなくてもアプリが作れる。デザインスキルがなくてもビジュアルが作れる。それは確かに真実ですが、Saarinen氏の言葉を借りれば、それは「初期デザイン」の段階で制約を取り除いているのではなく、制約を見えなくしているだけかもしれません。

AIの出力は、すでに何らかの「システム」の中にあります。AIが学習したデザインパターン、コーディング規約、表現様式。私たちがAIの出力をそのまま受け入れるとき、私たちはそのシステムの中でデザインしているのです。

本当にAIを自由のために使うなら、AIの出力を疑うべきです。「なぜAIはこれを選んだのか」「他にどんな可能性があるのか」「私は本当にこれを望んでいるのか」。そうした問いを持つことで、初めてAIは探索の道具になります。

5-5. 多様性が生む創造性の豊かさ

Saarinen氏は「多くの花を咲かせる」ことの重要性を説きました。これはAIクリエイティブの世界でも同じです。

すべてのクリエイターが同じAIツールを使い、同じプロンプトテンプレートを使い、同じワークフローに従う世界を想像してみてください。恐ろしく均質化された世界です。

私たちには、それぞれの「花」を咲かせる責任があります。ある人はAIを詩的な表現の探索に使うかもしれません。別の人はデータビジュアライゼーションの新しい形を探るかもしれません。また別の人は、AIとの対話そのものを芸術作品にするかもしれません。

重要なのは、AIという道具の可能性を、統一された「正しい使い方」に収束させないことです。実験し、失敗し、意外な使い方を発見し、共有する。その多様性こそが、AIクリエイティブという分野を豊かにします。

5-6. 私たちの仕事は「意見を探すこと」

Saarinen氏の第二の投稿のタイトル「デザインは意見の探索である」は、AIクリエイターにとって特に深い意味を持ちます。

AIは、ある意味で「意見のないツール」に見えます。あなたが何を求めても、それを生成しようとします。しかし実際には、AIは膨大な意見の集合体です。何百万ものデザイン、テキスト、コードから学習した「集合知の意見」です。

私たちの仕事は、その集合知に自分の意見を対峙させることです。「これは本当に必要なのか」「これは誰のためのものなのか」「これは世界に何を加えるのか」。

AIが提案する「最適解」を盲目的に受け入れるのではなく、自分なりの「意見」を持つこと。時には非効率でも、時には理解されなくても、自分が信じる方向性を探すこと。それこそが、AIクリエイターとしての私たちの価値です。

5-7. 結論:AIと共に探索する未来

Saarinen氏の言葉を通じて、私はAIクリエイターとしての自分の立ち位置を再確認しました。

AIは強力なツールです。しかし、ツールはツールに過ぎません。真の創造性は、ツールではなく、人間の中にあります。混沌と向き合う勇気、苦しみを受け入れる覚悟、そして誰も見たことのないものを探し求める情熱。

私たちは、AIを「最短経路」としてではなく、「探索の仲間」として使うべきです。AIの意見を尊重しつつも、最終的には自分の意見を持つべきです。そして何より、AIツールの均質化する力に抗い、それぞれの「花」を咲かせるべきです。

新しいテクノロジーは、より速く構築することを可能にします。しかし、Saarinen氏が言うように、それは創造が本当に何であるかとは関係ありません。

創造とは探索です。そしてその探索の旅に、今はAIという新しい仲間が加わったのです。私たちがすべきことは、この仲間との対話を通じて、人間にしか見つけられない何か、人間にしか作れない何かを、探し続けることです。

それこそが、AI時代における真のクリエイターの姿なのではないでしょうか。

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